旅立ちの娘

(著者)四季彩々

「私、東京の大学を受験するから」
 
 娘からそう言われて、動揺する私。
 昔と違って一緒に外食する機会も減ってしまった。久々に二人だけで外食をしたいと言われて連れてきたのだが…。
「私立の大学じゃないよ、国立だから」
 言葉の出ない私は、娘の顔を暫くジッと見つめた。
 日頃から、パパの給料じゃあ私立は無理だからと、国立である新潟大学への進学を娘に促してきた。給料が少ないのは事実だが、その発言は本意ではない。実家から通学してくれるのであれば、どこの学校でも良かったのだから。
「仕送り厳しければ、自分でバイトして稼ぐよ」と言う彼女に、「お金の問題じゃない」と返す。
「ママは知っているのか?」
「知っているよ」
「なんて言ってる?」
「勉強頑張りなさいって」
 馬鹿な、と口には出さなかったが、私の顔は曇る。
 古町にあるホテルイタリア軒のレストランで、彼女はパフェを口に運ぶ。東京であれがしたい、これもしたいと、パフェに向かいながら、半年後の未来に向けて 淡々と私に報告をする。
 新潟から東京まで、上越新幹線で約2時間。嫁ぐわけでもない、と言われればそうなのだが、寂しいものは寂しい。私は自分の半身が引き剥がされそうな想いで、彼女の報告を聞いていた。
 ワインを飲みたくなったが、ぐっとこらえる。娘は妻と一緒で、お酒を飲む私をあまり好きではなかった。
 この店を出たら一人で飲みに行くか…。
 彼女が私に顔を向けることはなかった。

          *

 私は一人寂しく古町商店街を歩いていた。
 静かなものだ。
 昔は路上で日夜、ギターを片手に愛を叫んでいた若者たちが多かった。
 ふと、ミュージシャンではない、路上脇で段ボールに座る青年を見つけた。
 青年は立て札と白い箱が置かれた横で、色紙とペンを2本握りしめている。
 《言葉のキャッチボール。五百円。》
 少し高い気もするが、私は近付き興味本位で横の箱にお金を入れてみる。
 すると青年はボソボソと「今の気持ちを色紙に一言」とつぶやき、ペンと色紙を私に手渡す。受け取った私は、
 《娘が上京。悲しい。》と色紙の右端に記載した。
 色紙を青年に返すと、青年は私の書いた文字の左横に、すぐさまペンを走らせる。
 《微笑ましい想い出。笑顔の種は今日も蒔かれている。》
 ………。
 お世辞にもセンスのある言葉とは言えなかったが、私の胸を何かが打つ。娘が小さかった頃の記憶が脳裏をよぎる。
 オバケ嫌いの娘が夜中に突然怖くなったのか、私の布団に飛び込んできた。
「パパあっち行って」と言いながらも、本当に遠くへ行こうとすると、娘は不安になって駆け寄り、私にギュッとしてきた。
 当時の些細な記憶で、目頭が少し熱くなる。
 私はペンを持ち直し、
 《これからの自分。》と先ほどの色紙に記載する。
 続けて青年がペンを走らせる。
 《想い出は一つじゃない。大切な人も一人じゃない。》
 ………。
 ふと、妻と出会った頃のことを思い出した。
 結婚してからも娘が産まれるまでは、よく二人で外食をしていたし、旅行も頻繁に行っていた気がする。特に語り合った内容は覚えていないが、共有した食事や風景は、今思い返しても尊い記憶である。
 ここ何年も二人きりで街を歩いた記憶がない。
 《大切な人も一人じゃない。》
 私は、青年にお礼を言い、過去を振り返りながら、ゆっくりと家路に向かった。

           *

 その夜、寝室にて。
 布団に入る私の横で、パタパタと化粧液を付けている妻。
 特にキッカケもなく、「なあ」と呼びかけると「ん」と返事が返ってきた。
「あいつの進学の話、聞いている?」
「聞いているよ」と、パタパタする手を止めることなく答える。
「受かるかな?」
「受かるでしょ、まじめだもん」
「そうか」と呟き、少し間を空ける。
 やると決めたらやるのが、うちの娘だ。彼女は自分の夢に向かって、しっかりと走り続けていくだろう。親元を離れてどこまでも。

「あいつの東京行き、笑って見送ってやるか」私は、ぼそりと口にする。
 続けて妻に聞こえないほど小声で「久々に二人で温泉旅行にでも行こうか」と口にする。すると、

「私も東京についていくよ」

 妻からそう言われて、動揺する私。
 彼女が私に顔を向けることはなかった。

オンラインぽっぽ焼き 

(著者)せとやまゆう

 医師がアプリケーションを開いて、患者のデバイスに接続。
「こんにちは。はじめまして」
「こんにちは。よろしくお願いします」
 声が聞こえるけれど、画面には誰も映っていない。ぽっぽ焼きだけが、宙に浮いている。
「あれ、お姿が見えないですね。画面の前に、来ていただけますか」
「実は、昨日の朝から透明人間になってしまいまして・・・」
 ぽっぽ焼きはゆっくり降下し、平皿の上へ。
「はあ、そうでしたか・・・。失礼しました。私はこういう者です」
 医師は医師資格証を提示した。患者は健康保険被保険者証を提示した。
「会社には電話して、体調不良ということで休みをもらっています。このまま透明人間のままだと、車にひかれたり、人にぶつかられたりするでしょう。怖くて外に出られません。家にいても、すぐに家族とぶつかってしまいます。どうか、元に戻してください」
「しかし、私は専門ではないんですよね・・・」
 医師は顎に手を当てて、しばらく考えた。

「フィクションの世界では、透明人間がいたずらをしようとする。すると、元の姿に戻ってしまう。これは、よくあるパターンですよね」
「はい」
「あなたは透明人間になってから、何かいたずらを考えましたか?」
「いいえ、そんな余裕ありませんでした」
「では、試しに考えてみましょうか」
 医師は、左手の人差し指を立てた。
「えっ、でもどんな?」
「そうですね・・・。《小学生男子が考えそうなこと》なんて、どうでしょう」
「ああ、なるほど。はいはい」

「想像できましたか?」
「はい」
「おっ、だんだん輪郭が見えてきましたよ。おお、もうお顔がはっきり見えます」
「本当ですか?」
 患者は画面からフレームアウトした。どうやら、姿見がある位置へ移動したようだ。
「おお、本当だ。戻っている!」
「よかったですね。はっはっは。また、症状が現れることも考えられます。近いうちに、対面で受診されることをお勧めします。お大事になさってください」
 医師は胸を撫でおろした。
「はい、わかりました。ありがとうございました!」
「ちなみに・・・。どんなことを想像したんですか?」
「えっと、それは秘密です。はっはっは」

大きい公園にて

(著者)せとやまゆう

 新潟の原風景、福島潟。涼しい風が、花の香りを運んでくる。一面に広がる菜の花畑。ベンチに座って、のんびり。ゆっくり時間が流れる。正面には大きな潟湖。カルガモたちが、水に浮かんで遊んでいる。カイツブリは水中に潜って、しばらく上がってこない。葦原のあたりでは、ダイサギが静かに歩いている。そのずっと向こうには、五頭連山が見える。
「いい景色だ」
 右にはキャンプ場。これからのシーズン、にぎわうことだろう。左には鳥獣保護区管理棟。たくさんの渡り鳥がやってきて、越冬するらしい。オオハクチョウ、コハクチョウ、天然記念物のオオヒシクイ。
「見てみたいなあ・・・。また、来ようっと」

 おにぎりを食べて、お茶を飲む。幸せなひととき。犬を連れた、中年男性が通り過ぎる。僕は思いっきり、伸びをした。
「ワンちゃん、かわいい~」
 リラックスしすぎて、大きな声が出てしまった。すると、犬が引き返して、僕のところへ駆け寄って来た。つられて飼い主も。
「おはようございます」
 挨拶から始まり、飼い主は色々なことを教えてくれた。シーズー、女の子、人懐っこい性格。つぶらな瞳で、見つめてくる。かわいい。上目遣いって、こんなに破壊力あるんだ・・・。僕のそばで、犬はくつろぎ始めた。
「すみません、男の人には目がないんですよ」
 申し訳なさそうに、飼い主は言った。これまで、僕は恋愛とは無縁の生活を送ってきた。つまり、モテ期をすべて残している。これから、モテる《第二の人生》が始まったりして・・・。
「よかったら、触ってあげてください」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです。この子も喜びますよ」
 僕は優しく頭を撫でた。フワフワしていて、心地よい感触。このまま、しばらくいてもいいよ。一緒に遊べるから、僕も嬉しい。心の中で、そう思った。

 キュッ、キュッ、キュッ。ポケットの中で、飼い主が音を鳴らした。すると、犬はその方向へ駆けていった。
「どうも、おじゃましました」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
 飼い主に抱っこされて、犬は行ってしまった。音が鳴るおもちゃか。手強いライバルだな・・・。

残りもの

(著者)せとやまゆう

 寝ぼけまなこで、大きく伸びをする。目覚ましをかけずに、たっぷり睡眠をとった。
「まだ、間に合うかな・・・。とりあえず、行ってみよう」
 
 顔を洗って、服を着替えて、僕は車に乗り込んだ。しばらく進むと、広い道路へ。窓を開けて、越後平野の風を受ける。空気がおいしい。一面に広がる水田が、青空を映している。目的地は、道の駅にあるおにぎり屋さん。商品が売り切れ次第、閉店してしまう人気店らしい。

 この町に来て、約1年が経過した。初めは、新しい環境に慣れるのに精一杯だった。最近は少し余裕が出てきて、色々な場所に行っている。特に、この町のおいしい物を食べる。それが楽しみ。そんなことを考えていたら、道の駅に到着。平日だから、駐車場が空いている。フードコートに入り、僕は胸を撫で下ろした。
「よかった。まだ開いているようだ」
 
 店頭のメニュー表を見ながら、ワクワク。使われているのは新潟県産のお米。具材の種類も豊富。塩、鮭の焼漬け、辛子明太子、いくら、天然ブリカツ、ねぎチャーシュー、高菜マヨ・・・。
「どれにしようかな」

 そこへ、ロボットの店員がやって来た。
「さっき、売り切れになったんだ。ごめんね」
「あー、やっぱり人気なんだね・・・」
「うん、おかげさまで」
 ロボットは、照れ笑いした。
「いやー、でも食べたかったなあ」
 僕は肩を落とした。
「うーん・・・。ちょっと、待っててね」
 ロボットは厨房に向かい、何やら確認している。しばらくして、戻ってきた。
「あのう、ミニサイズのおにぎりなら、何とか作れそうだよ」
「えっ、そうなの?ぜひ、食べてみたい」
 
 3分ほどで、おにぎりが完成した。
「お待たせ。少しずつ残っていた具材を、全部入れたんだ。海苔も巻いたよ」
「わー、やったー!おいくらですか?」
「お金はいらないよ。試食サイズだからね」
 ロボットは微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。作ってくれて、ありがとう」
「今日は来てくれて、ありがとう。また、待ってるね」
 
 木の温もりを感じる、テーブル席に座る。おにぎりを一口。お米の香り、甘みを感じる。そして、口に運ぶたびに違う味。具材の緻密な配列。
「すごい!試食のレベルを超えている」
 おにぎりのおいしさ、ロボットの優しさが心にしみた。嬉しさのあまり振り返ったが、店はもう閉まっていた。
「今度は、もっと早い時間に来ようっと」
 僕は目を閉じて、しばらく余韻に浸っていた。

酒天童子はミニスカートで走りたい

著者) つぐみざき あさひ


 五月、今日は天気がいい。僕は男の子を拾った。
 新聞を取りに外に出たら、段ボール箱に入った男の子にえらく達筆な手紙が添えられていて、要約すると拾ってくださいと書いてあった。
 立派な家には住んでいるんだけど、そういうのは受け付けてない。とはいえ、近頃暑くなってきているし、死んだりすることがあってはこまるから、と思ってなかに入れてやったのが間違いだったらしい。
「僕は半田あきらだ。君は?」
「酒天童子」
 と来たもんだ。
 酒天童子は確かに新潟県出身だから、京都で倒された後、魂が故郷のここににたどり着いていたとしてもおかしくはないけど。僕は源頼光の子孫でも国上寺の関係者でもないんだけど。
 僕はなにも考えないことにした。
 着ているものがぼろぼろでぼさぼさの髪、顔は良さそうだけど身なりが汚いな。と思った僕は、酒天童子の身ぐるみ剥いで風呂に入れた。
 するとまあ、あっという間に市の方に行ってもそうそういない美少年が現れた。
 現れた訳だが。
「君が着る服がないか。君は小柄だし昔の僕の服が合うかもしれないな」
 昔の服を納戸から引っ張り出している間に、酒天童子が僕の部屋に忍び込んでそこらじゅうひっくり返し、しかも僕の制服を着て、どや顔をするという非常識っぷりだ。
「みじけぇ袴らね。ツンツルテンら」
「それはスカートだ。女子の制服だよ」
 酒天童子が形のいい目を丸くして、
「あきら、髪、みじけえ」
 と片言で言う。
「今の女子はこんな格好をしていることが多い。もちろん僕みたいに違う格好をしたいひともいるけどな」
 と、ファッション雑誌を見せ、イマドキの女子の衣装を教えてやった。
 酒天童子はなにごとか考え込んでいたけれど、おもむろにこう言った。
「あきら、おんなっこんがにおんなっこのかっこしねえ。そいらば、俺がおんなっこしてもいいが?」
「いいんじゃないか?そういう人もいる」
 酒天童子の目がこれでもか、というほどきらっきらに輝いた。
 第一僕が男装趣味だし、変人に女装癖が加わっても、いまさら態度を変える方が疲れる。
「でも、とりあえず、制服はやめてくれ。セーラー服は手入れが大変なんだ」
 僕が着ないワンピースを着て、姿見を眺めていた酒天童子がおもむろに呟いた。
「あきら」
「どうかしたのか?」
 さらっさらになった髪をふわりとなびかせて振り向いた。
「いとしげらな、俺」
「………」
 更にナルシストが追加。
「あきら、街にいごうれ」
 ぴょんぴょん跳ねながら酒天童子が言う。
「あんまり自分が可愛いから見せびらかしたいのか?」
 ふんふんふん、と元気よく酒天童子が頷く。
「じゃあ、今度NEXT21でやるファッションショーに出てみるか?」
「ふぁ?」
 六月にNEXT21で、専門学校の学生によるファッションショーがあるらしい。僕はそういうことにはてんで疎いけど、幼なじみのおしゃれ番長はるかが言ってたのを覚えていた。
 チラシを引っ張り出して、色々と説明をしてやる。
 返事はもちろん即答で、
「やりてえ!」
 だった。
 ということで六月。
 酒天童子がまとったのはおしゃれ番長のはるかに借りた、僕にはなんかもうよくわかんない流行りのすっごい可愛い服だ。
 僕とはるかがいるのは客席だ。ファッションショー会場のNEXT21曲線のエスカレーターの降り口、ランウェイが設置され、客席が作ってあった。
「てんちゃんは超可愛いけど、今までのモデルさんはみんなプロだし、メイクも衣装もプロのひとだし、大丈夫かな?」
 はるかがエスカレーターのステップの上で気取ったポーズのままスーッと降りてくるモデルを見ながら言う。五泉や見附の繊維業が全面に押し出された、特産品だのなんだのをモチーフにした衣装でしゃなりしゃなりとランウェイを歩いてくる。
「大丈夫だよ」
 僕は酒天童子を真似て、自信たっぷりに言った。
「なんでよ?」
「だって、酒天童子は女子を自然発火させるほどのイケメンだから、女子になっても同等かそれ以上の破壊力があるに決まっているんだ」
 ちょっと説明をはしょりすぎだけど、その昔寺で稚児をしていた酒天童子に対する恋患いで死んだ女性の恋心が煙になって酒天童子を鬼にしたらしいし。
 エスカレーターの乗り口が見える席の辺りで、ショッキングイエローの悲鳴があがった。一部なんか野太いけど、それははるかセレクトの勝負服の効果だろう。僕にはなんかもうよくわかんないあれの。
 すらりと白い足がミュールでランウェイに降り立った。
「な、はるか、誰にも負けないだろ」
 スポットライトを浴びて、この世のものとは思えないくらい輝く酒天童子が、軽やかにランウェイに踏み出す。
「そうだね」
 他の一般的な女子なんかかすむほど可愛い酒天童子が、重力から解放されているようにふわりと跳んだ。ガラス貼りの壁から射し込む光をまとって、どんな宝石より輝く笑顔を振り撒きながら。

風鈴の中の風景

著者) 鈴香


 その日は何をやってもうまくいかず、気持ちがささくれ立っていた。
 空高くには灼熱の太陽、アスファルトからの照り返し、四方から聞こえる蝉の声は耳障りで、じっとりと張り付くような湿気に息が詰まった。
 歩いているうちに呼吸が荒くなり、額から汗が噴き出る。
 肩にかけていた重たい鞄を下ろし、苛立ちまぎれにため息をついたとき、どこからか風鈴の音が聞こえてきた。
 チリン。
 風に乗り、耳元をかすめて行った音は透き通っていて、思わず音の出所をさがす。
 チリン。
 再びの、凛とした音。つま先が、小道へと向く。
 チリン。
 誘うような音に、歩き出す。
 家と家の隙間をぬって伸びる小道は細く、薄暗さに一瞬だけ視界が奪われる。
 目をつぶり、ゆっくりと開く。
 チリン。
 音を頼りに歩き出す。どこの家からか、煮物の良いにおいが漂ってくる。甘く煮詰めた醤油の香りを胸いっぱいに吸い込み、ふと懐かしい思いがこみ上げてくる。
 夏休みの間、忙しい両親の代わりに預けられていた祖母の家。必ず食卓に上がった煮物は、祖母の得意料理だった。
 チリン。
 ひときわ大きく聞こえた音に視線を巡らせば、日に焼けた藍色の暖簾が目に飛び込んできた。
 白抜きされた風鈴屋の文字は達筆で、風格のある木造の建物は周囲から浮いて見えた。
 チリンチリン。
 入っておいでと言うように、軽やかな音が手招きをする。
 どうしようかと悩む前に、つま先が暖簾をくぐる。
 お店の中は暗く、所狭しと吊られた風鈴が、どこからか吹く風に揺れている。
 チリン。
 奥に吊られていた一つが音を鳴らす。他の風鈴も揺れているのに、音は聞こえてこない。
「いらっしゃい」
 暗がりから声を掛けられ、肩がビクリと上下する。小柄な老人が、にこやかな表情で立っていた。
「風鈴に呼ばれてきたんだね。 ……さあて、どの子が呼んだのかね」
 深いしわが刻まれた手が、1つの風鈴に伸ばされる。
 オレンジ色と深い青色で彩られた風鈴が、再びチリンと鳴る。
「さあ、どうぞ。手に取ってごらんなさい」
 短冊には紙風船の絵柄。ひんやりとしたガラスの表面は滑らかで、緩やかな丸みが不思議と掌になじんだ。
「もっとよくごらんなさい。もっと顔を近づけて」
 言われるままに、風鈴を目の高さにもっていき、じっと色に目を凝らす。
 オレンジ色は夕焼けのような複雑な色で、深い青色は夜に染まりつつある海の色だった。
 この光景を、覚えている。まだ幼いころ、確かにこの色を見たことがある。
 曖昧な記憶を形作ろうと目を凝らしたとき、グニャリと視界が歪んだ。
 突然のめまいに眉根を寄せ、強く目をつぶる。チリリと痛むこめかみを指で押す。
 近くを誰かが通り過ぎる気配に目を開ければ、飛び込んできたのは鮮やかな色の夕暮れだった。
 耳には規則正しい波の音、通り過ぎていく風は日本海独特の濃い磯の香りをまとい、テトラポットに打ち付けられた波が白く泡立つ。
 海に背を向ければ山がそびえ、海岸線を通る道の向こうには、家々が肩を寄せ合うように建っている。窓に明かりは灯っているものの人通りはなく、車の往来もあまりない。
 祖父母が亡くなり、もう二度と来ることはないと思っていた、あの町。
 目の前の町と、記憶の中の思い出が重なる。
 丸い石を探しに祖父と歩いた海岸、祖母に連れられて泳いだプールでは、小さなカエルが飛び跳ねていた。遊びに来た父と一緒に入った海では波に飲まれ、塩辛い海水に大泣きした。
 たった一軒の雑貨屋さんで本を買うために、祖母と歩いた道。日傘をさしてゆっくりと歩む祖母の数歩前を、石を蹴りながら歩いた。
 自宅のバルコニーから見た花火大会は小規模で、祖父が買ってきた花火を追加でやっていた。打ち上げ花火をあげるたび、懐中電灯を持った手を大きく振って、家で見ている祖母に合図を出していた。
 友達と遊べない夏休みが悲しくて、両親と過ごせない日々が寂しくて、でも泣いていることを悟られたくなくて、じっと見つめ続けた夜空。東京で見るよりも広い空には無数の星が輝いていて、星を追ううちに目が良くなってしまった。
 チリン。
 手の中で鳴った風鈴に、目を開ける。
 細い路地裏は整然としており、規則正しく並んだ花壇では、あまりの暑さに花が萎れている。
 頭上でセミが鳴き、全身にじっとりとした湿気がまとわりつく。
 慌てて先ほどの店を探すが、藍色の暖簾はどこにもなく、どんなに耳を澄ませても風鈴の音は聞こえてこない。
 立っているだけで汗が噴き出す暑さに、白昼夢でも見たのかと思うが、手の中にはしっかりと風鈴が収まっている。
 チリン。
 指先に引っ掛けた風鈴が鳴り、先ほどまで見ていたあの町の景色が脳裏をよぎる。
 時が止まったのかと思うほど穏やかな時間が過ぎていたあの町、出雲崎。
 一人で過ごす夏休みの象徴であり、思い出すたびに苦い気持ちがよみがえる場所ではあるが、思えばあの町にいたころの祖父母は幸せそうで、いつも穏やかに微笑んでいた。

アマメハギ

(著者) ツキノマコト


 日本の来訪神行事と言えば、秋田の「なまはげ」が特に有名だが、新潟県にも存在する。村上市大栗田の「アマメハギ」だ。
 なまはげとルーツは同じなようで、鬼の面や腰に巻いた蓑など、姿もよく似ている。
 大栗田は過疎化が進み、今ではもう数人しか人が住んでいない。アマメハギの行事も、地元の小中学校の閉校に伴い、一度は途絶えてしまった。近年は村上市の保存会の尽力により、かろうじて小規模に実施されている。

「昔は結構、にぎわったんですよ。毎年1月にね、青年会の若い人や中学生がアマメハギに扮装してね。一件一件、練り歩いてましたね」
 そう語るのは、村上市の出身だというSさんだ。かつて伯父夫婦が大栗田に住んでおり、幼い頃はよく遊びに行ったという。Sさんは古稀を少し過ぎた年齢だから、六十年以上も前の話だ。

「集落には、アマメハギがいると信じて本気で怖がっている子どもも、たくさんいましたよ。でも、私は違った。なぜって、私の伯父がアマメハギだったからですよ」
 Sさんの伯父は、青年会の役員だったので、毎年、アマメハギ役の一人だったという。
「ですから、伯父の家の物置には、真っ赤な鬼の面とか、段ボールの包丁とか、アマメハギグッズが揃ってましたよ」
 Sさんはそう言って愉快そうに笑った。
 ところが、
「でもねぇ。私は一度だけ、不思議な光景を目にしたんですよ」
 ふいに真顔になって、こんな話を聞かせてくれた。

 ある年のことだった。Sさんは例年どおり、アマメハギの行事の時期に伯父の家へ遊びに行ったのだが、熱を出してしまい、寝込んでいた。もとも身体が弱く、すぐに風邪をひく子どもだったという。
 真夜中、ふと目を覚ました。トイレに立とうとしたが、熱と眠気で頭がぼんやりとして、思うように体が起こせない。
 寝返りを打つと、部屋の片隅に人影が見えたので、目をこらしてみた。

「そこにね、立っていたんですよ。アマメハギが」

 アマメハギは微動だにせず、じっとSさんのことを見つめていたという。
「伯父が帰って来て、私の様子を見に来たのだと思いました。ですが」
 Sさんは違和感を覚えた。
「アマメハギの装束のままでいるのは変だし、それに、そのアマメハギは天井に頭が付くくらい大きかったんですよ。伯父は小柄な人だったのに」
 Sさんはしばらくの間、アマメハギと見つめ合っていた。不思議と怖さは感じなかった。アマメハギは優しい顔で笑っているように見えたという。
「その後、すーっと記憶が飛んでいるんです。気が付いたら朝になっていて、部屋には私一人でした。熱はすっかり下がっていました」

 Sさんが食卓に行くと、伯父がすでにいた。Sさんは伯父に、ゆうべ何時頃帰って来たのかを尋ねた。

「帰ってない、と言うんです。青年会の人たちと夜通し新年会をしていて、たった今、朝帰りしたと」

 それ以来、Sさんは、あの時のアマメハギを一度も見ていない。
「不思議な事に、あれ以来、私は風邪をひかなくなったんです。あんなに病弱な子どもだったのに。私は、今でもあれは本物のアマメハギだったと思っているんですよ」
 Sさんは、嬉しそうにそう語った。

見合い話

(著者)月の砂漠

 越後線の車内は閑散としていた。この様子だと、吉田駅を出たあたりで乗客は私だけになりそうだ。帰省のシーズンでもないし、終電間際のこんな時間だから、別におかしいことでもない。ただ何となく、私は寂しさのようなものを感じていた。
「ふぅ」
 私は、今朝から何度目かの溜息をついた。
「お嬢さん、さっきから元気がないようですね。何かお悩みですか?」
 ふいに、通路を挟んだ横の席に座っていた老人に声を掛けられた。私は、その老人がいつからそこに座っていたのか、思い出せなかった。何だか突然現れたようにも思えた。
「いえ……すみません、大丈夫です」
 私は会釈して、老人から目をそらした。
田舎特有のお節介といったところか。人の悪そうな老人ではなかったが、だからと言って、見ず知らずの人に、今の自分の悩みを打ち明けようとは思わない。
「まぁまぁ、そう言わずに。誰かに喋ってしまえば、気が楽になることもありますよ」
 気が付くと、老人は私の目の前の席に座っていた。いつ移動したのだろう。全然気が付かなかった。
 私はチラリと老人を見た。年寄りの割にはずいぶんとスタイリッシュな服装をしていた。地元の住人ではなく、私と同じで、都会から故郷へ戻る途中なのかも知れない。
「お国は新潟ですか?」
 老人が尋ねて来た。私は、はいと頷き、故郷の町の名を告げた。老人は、私もそこなんですよと嬉しそうに応じた。
「良い町ですよねぇ。自然は豊かだし、魚も美味しいし」
 老人は独り言のようにつぶやいている。
「退屈で平凡な町ですが、やっぱり好きですねぇ。我が自慢の故郷ですよ」
 老人がにっこりと私に笑い掛けた。私は、なぜか、その笑顔をとても好ましく思った。
「私、実はこれからお見合いなんです」
 私は老人に言った。言ってから、自分に驚いた。どうしてこんなプライベートなことを初対面の老人に話す気になったのだろう。自分でもよくわからなかった。
「ほう。お見合いですか」
「でも……悩んでいるんです。悪いお話じゃないとわかっているんです。むしろ、とても良いお話だと。でも、このまま、受けてしまっていいものか、ためらいもあって……」
 結婚ということになれば、私は東京の独り暮らしのアパートを引き払い、正式に故郷へ戻ることになる。そして、故郷で静かに暮らしていくのだ。おそらく、一生。
 年を取って来た両親の顔。職場でひそかに恋をしていた先輩の顔。将来生まれるかも知れない赤ちゃんの顔。趣味仲間たちの酔っぱらってはしゃぐ顔。
 様々な顔たちが、私の頭の中で入れ替わり立ち替わり巡っていた。自分にとって、一番大切なものは何か。考えるたびに、出て来る答えは違っていた。
「なるほど。そうでしたか。あなたはこんなに色々と悩んでいたわけですか」
 老人は、難しい顔をしてしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私に言えるのは一つだけです。きっと、これからあなたとお見合いをする相手の男性は、心の底からあなたを愛し、生涯をかけてあなたを守るはずです。それだけは必ずお約束します」
 老人は穏やかに言った。お約束します、という言い方が面白くて、私はちょっと吹き出した。それじゃあ、まるでこの老人が当事者みたいじゃないか。
 老人は優しく微笑んで、言葉を続けた。
「悩んで、悩み抜いて、私を選んでくれてありがとう。結婚してから六十年。ずっと一緒に居られて、私は毎日幸せだった。本当にありがとう、サオリ」
 突然、老人が私の名前をつぶやいた。
 えっ、どうして私の名前を知っているの?
 そう思った瞬間、老人の姿は消えていた。後には、淡い光がぼんやりと残っていた。
 私は不思議な思いに包まれた。今のは、白昼夢だったのだろうか?
 車内アナウンスが、目的地への到着を告げた。私は鞄を手に取り、立ち上がった。
どうしてだかはわからないけれど、私は、今回の見合い話を、受けようという気持ちになっていた。
【了】

(著者)トシツグ


沖合を見やれば、今日は波が穏やかで。
あぁ、どうやら雲も浮かんでいない。
何とも、良い日和になりそうだ。
舟を出すなら、こんな日がいい。

魚籠(びく)と箱眼鏡、それに、銛(もり)。舟に乗せられるものには限りがある。
まぁ、舟、と言ってもただの盥(たらい)に相違ない。
もとは洗濯桶だとか、聞いたことがある。
そんな突拍子もない発想さえ、趣深さを感じる。
私は出来が悪かったから、何度も海に転げ落ちたものだ。
今は、もうそんなことないけれど。
「今日も、頑張ろうな」
杉の木の手触りを確かめて、舟に乗り込み、櫂(かい)で岸を押す。
ぐらりと足場が揺れ、身体が浮くのを感じながら。
水面の浮き沈みを読み、ゆっくりと漕ぎ出した。

朝凪の静けさが、私は好きだ。
先ほどまで賑やかだった潮騒も、風と共に鳴りを潜めている。
水天一碧。海と空とが溶けて混じって、一片の曇りもない。
見渡す限り、透き通るような碧(あお)。
何度でも、何度でも。
この景色を焼きつけたくなるのだ。
境目が柔らかく浮き上がって、白波が立ち始める。
擽るように風も動きを取り戻す。
さぁ、舵を取りやすいうちに、漁場に向かうとしよう。

岩にぶつかって白く爆ぜる波。
その合間にちらちらと魚の鱗が光った。
小木の一帯は岩礁と小さな入り江が多い。
小回りの利く盥舟でなければ、きっと思うようには動けない。
細かい波間に箱眼鏡を覗かせれば、眼前に広がる、光の帯の数々。
風も、波の声も耳に届く。それなのに、私は海の中にいるようだ。
今日も、綺麗だ。
ずっと眺めていられる。そう思う。

岩場に張り付いているのは鮑か。
ケイカギを伸ばし、殻に引っ掛ける。
手首をくくと返し、より深くに潜らせる。
こうすれば少しばかり楽に、獲れるものだ。
タモに潜らせ、引き上げれば、少々小ぶりではあるものの、立派な出で立ちだ。
良い値で売れておくれな。
魚籠に放り入れると、次の獲物を探す。
これの繰り返しだ。

磯ねぎ漁、見(み)衝(つ)き漁。こういった生業の人も、随分少なくなった。
それも、良いのだと私は思う。
移ろいゆく時代の中で、私が選んだ生き方。
選んだ者にしか分からないことも、見えないことも、ある。
それがどんな生き方だとしても。
それはきっと、当たり前なことで。
でも、特別なものだ。
海から出るときに私は毎日のように思う。
漁をし、たまに人を乗せ、この盥舟で過ごす時間。
そこで見せつけられる、美しい世界の、小さな片鱗。
この先、何年だって、私はこのためだけに生きることができる。

夕刻に、また来るよ。
漁火の用意でもして、見衝きをしよう。
私の一日は、こんな感じだ。