スペシャルなイルカショー 

(著者)せとやまゆう

 新潟にある水族館。今はイルカショーの時間。たくさんの観客で賑わっている。僕の隣には、好きな女の子。イルカがジャンプする。ザッパーン。水しぶきが上がって、涼しい。
「手つながなくて、いいの?」
 ジャンプしながら、イルカが話しかけてくる。1人だけに、聞こえる周波数で・・・。黙ったまま、僕は首を縦に振る。
「まだ、付き合ってないパターンか。告白は?」
「今日、しようと思ってる」
 僕は、小声で答える。
「今しちゃえば?これから、大回転を決めるから」
 高く飛んで、クルクルクルクルクルー。五回転して、ザッパーン。大きな水しぶきが上がる。
「きゃー、すごいね!」
 キラキラした女の子の笑顔。せっかく、イルカが背中を押してくれたんだ。僕も男を見せないと・・・。
「好きです。付き合ってください」
 真剣な顔で、僕は言った。驚いた表情の女の子。ついに、言ってしまった。僕の鼓動は速くなった。

「はい、お疲れ様でした。ゴーグルを回収しますね」
 スタッフの声とともに、周囲の観客が姿を消した。隣に座っていたはずの、女の子も。水槽の中では、イルカが静かに泳いでいる。
「かわいかったでしょう。たくさん話せましたか?」
「はい、ありがとうございました!」
 ああ、ドキドキした。ドキドキしたら、お腹が空いてきた。レストランに移動し、僕はわっぱ飯を食べた。薄い塩味のご飯の上に、鮭といくらがたっぷり。追加で、メギスの唐揚げをオーダー。心もお腹も満たされた。

 帰りながら、僕はチケットの半券を取り出す。
《開館前 貸し切りイルカショー!》
 どうして、こんなチケットを持っていたかというと・・・。幸運なことに、抽選で当たったからだ。余韻に浸っていて、気付いた。半券に書いてある文章。
《もう一度、ご利用いただけます。ぜひ、ペアでお越しください!》
 なんて、太っ腹なんだろう・・・。嬉しい、嬉し過ぎる。振り返って、僕はお辞儀をした。また、必ず来ます。
「よしっ!」
 勇気を出して、あの子を誘うぞ。

大きい公園にて

(著者)せとやまゆう

 新潟の原風景、福島潟。涼しい風が、花の香りを運んでくる。一面に広がる菜の花畑。ベンチに座って、のんびり。ゆっくり時間が流れる。正面には大きな潟湖。カルガモたちが、水に浮かんで遊んでいる。カイツブリは水中に潜って、しばらく上がってこない。葦原のあたりでは、ダイサギが静かに歩いている。そのずっと向こうには、五頭連山が見える。
「いい景色だ」
 右にはキャンプ場。これからのシーズン、にぎわうことだろう。左には鳥獣保護区管理棟。たくさんの渡り鳥がやってきて、越冬するらしい。オオハクチョウ、コハクチョウ、天然記念物のオオヒシクイ。
「見てみたいなあ・・・。また、来ようっと」

 おにぎりを食べて、お茶を飲む。幸せなひととき。犬を連れた、中年男性が通り過ぎる。僕は思いっきり、伸びをした。
「ワンちゃん、かわいい~」
 リラックスしすぎて、大きな声が出てしまった。すると、犬が引き返して、僕のところへ駆け寄って来た。つられて飼い主も。
「おはようございます」
 挨拶から始まり、飼い主は色々なことを教えてくれた。シーズー、女の子、人懐っこい性格。つぶらな瞳で、見つめてくる。かわいい。上目遣いって、こんなに破壊力あるんだ・・・。僕のそばで、犬はくつろぎ始めた。
「すみません、男の人には目がないんですよ」
 申し訳なさそうに、飼い主は言った。これまで、僕は恋愛とは無縁の生活を送ってきた。つまり、モテ期をすべて残している。これから、モテる《第二の人生》が始まったりして・・・。
「よかったら、触ってあげてください」
「えっ、いいんですか?」
「もちろんです。この子も喜びますよ」
 僕は優しく頭を撫でた。フワフワしていて、心地よい感触。このまま、しばらくいてもいいよ。一緒に遊べるから、僕も嬉しい。心の中で、そう思った。

 キュッ、キュッ、キュッ。ポケットの中で、飼い主が音を鳴らした。すると、犬はその方向へ駆けていった。
「どうも、おじゃましました」
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
 飼い主に抱っこされて、犬は行ってしまった。音が鳴るおもちゃか。手強いライバルだな・・・。

残りもの

(著者)せとやまゆう

 寝ぼけまなこで、大きく伸びをする。目覚ましをかけずに、たっぷり睡眠をとった。
「まだ、間に合うかな・・・。とりあえず、行ってみよう」
 
 顔を洗って、服を着替えて、僕は車に乗り込んだ。しばらく進むと、広い道路へ。窓を開けて、越後平野の風を受ける。空気がおいしい。一面に広がる水田が、青空を映している。目的地は、道の駅にあるおにぎり屋さん。商品が売り切れ次第、閉店してしまう人気店らしい。

 この町に来て、約1年が経過した。初めは、新しい環境に慣れるのに精一杯だった。最近は少し余裕が出てきて、色々な場所に行っている。特に、この町のおいしい物を食べる。それが楽しみ。そんなことを考えていたら、道の駅に到着。平日だから、駐車場が空いている。フードコートに入り、僕は胸を撫で下ろした。
「よかった。まだ開いているようだ」
 
 店頭のメニュー表を見ながら、ワクワク。使われているのは新潟県産のお米。具材の種類も豊富。塩、鮭の焼漬け、辛子明太子、いくら、天然ブリカツ、ねぎチャーシュー、高菜マヨ・・・。
「どれにしようかな」

 そこへ、ロボットの店員がやって来た。
「さっき、売り切れになったんだ。ごめんね」
「あー、やっぱり人気なんだね・・・」
「うん、おかげさまで」
 ロボットは、照れ笑いした。
「いやー、でも食べたかったなあ」
 僕は肩を落とした。
「うーん・・・。ちょっと、待っててね」
 ロボットは厨房に向かい、何やら確認している。しばらくして、戻ってきた。
「あのう、ミニサイズのおにぎりなら、何とか作れそうだよ」
「えっ、そうなの?ぜひ、食べてみたい」
 
 3分ほどで、おにぎりが完成した。
「お待たせ。少しずつ残っていた具材を、全部入れたんだ。海苔も巻いたよ」
「わー、やったー!おいくらですか?」
「お金はいらないよ。試食サイズだからね」
 ロボットは微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。作ってくれて、ありがとう」
「今日は来てくれて、ありがとう。また、待ってるね」
 
 木の温もりを感じる、テーブル席に座る。おにぎりを一口。お米の香り、甘みを感じる。そして、口に運ぶたびに違う味。具材の緻密な配列。
「すごい!試食のレベルを超えている」
 おにぎりのおいしさ、ロボットの優しさが心にしみた。嬉しさのあまり振り返ったが、店はもう閉まっていた。
「今度は、もっと早い時間に来ようっと」
 僕は目を閉じて、しばらく余韻に浸っていた。

ルイおばさんのふしぎなカフェ

(著者)銀の猫

 そのカフェは美人林の奥深く誰もたどり着けない隠された場所にあります。
 年月を重ねたログハウスで入り口にはかわいらしい看板がたててありました。
「 RUI‘s Café(ルイズ カフェ)」。
 ルイおばさんは、毎日林の中でゆっくり本を読んだり動物たちと遊んだりしています。
 イサムおじさんから連絡のあるときだけ店を開けるのです。
 今日、イサムおじさんから連絡がありました。
「本日のお客様は女性一人」
「はい。喜んで」とルイおばさん。さっそく支度に入ります。
 お客様は何をお好みかしら。コーヒー?紅茶?ミルクも必要ね。ジュースも。そうそう、大事な「お水」を用意しないと。
 そう言ってルイおばさんは林の中に入っていきました。
 しばらくして、お客様がお店の前にたたずみ、扉を開けました。
「カラン・コロン」扉を開ける音がします。そうして女性が一人入ってきました。
「美人林に行きなさいと声が響いて、気が付いたらいつの間にかここに…」女性はとても不安そうです。
「いらっしゃいませ。おまちしていました」とルイおばさん。
「どうぞここへ。お飲み物は何になさいますか?」
「コーヒーを下さい」
「かしこまりました」
その女性はどこかに心を置いてきたようにひっそりと座っていました。
「コーヒーをどうぞ。あなたの心にしみますように」そう言ってルイおばさんはコーヒーを出しました。
何も言わずにコーヒーを一口飲んだ女性は…
「私は悲しくて仕方がありません。一年ほど前に愛する子供を二人、事故で亡くしました。私がもう少し気をつけていれば、私が代わりになっていれば、と毎日毎日悔やんでいます」と告白し始めました。
 実はルイおばさんの飲み物には秘密があり、林の中の清らかな水を使って作られていました。この水は飲んだ人に特別な作用が出ます。
 女性の両目から涙があふれ、テーブルの上に落ちたそのとき、
「かちん」と音がしました。涙が真珠になっていたのです。女性は驚きました。
「あら、真珠だわね。真珠の意味は“苦しみから生まれる美”なのよ。きっとお子さんたちはお母さんに悲しい顔をさせてしまっていることが心残りなのかもしれないわね。“私たちのこと忘れない為にも生きて”って真珠から聞こえてくるのだけれど」
 女性は更に涙を流しました。しかし、今度は真珠にはなりませんでした。そのかわり、女性の心が戻ってきたように感じられました。
 ルイおばさんは言います。
「この真珠、一つはお代としてもらいます。もう一つは思い出せるようにあなたが持っていてください」
 女性はうなずくのがやっとでした。そして女性は去っていきました。安心したのと感謝の気持ちとが入り混じった感動の涙を流しながら。
「ありがとうございました」ルイおばさんはほっと一息椅子に座りました。
「カラン・コロン」誰かが入ってきます。
「おや、今日のお客様はお一人のはずだけど」子供が二人。男の子と女の子です。
「僕たちずいぶん前から道に迷っていて気がついたらここいいたの」
ルイおばさんは言いました。
「ココアを作ってあげるからこちらにいらっしゃい」
 ちょこんと座った二人に温かいココアを出しました。二人は温かいココアを一口飲みました。すると...
 二人の体に淡い光がまとわりつきました。ふしぎに思っていると、
「僕たちのママが悲しんでばかりで何もできなくなったから心配で心配で」
 ルイおばさんはつい今しがた手に入れた真珠を男の子と女の子の重ねた手のひらにのせました。ふしぎなことに、真珠から優しい光が輝いて男の子と女の子の体の中に入っていきます。
「おばさん、ありがとう。ママは元気になったんだね」淡い光が強い光へと変わり、まばゆい光の中で男の子が言いました。
「ありがとう。やっと行ける」女の子のバイバイの手を最後に二人の体は優しい光となり美人林のブナの木にまとわりついて上へ。青い空の向こうにすうっと消えていきました。後には真珠だけが残りました。ルイおばさんは真珠を透明の小瓶に入れながらこう言いました。
「イサムおじさんに言っておかないと。たまに予定外のお客様も来るわよって」そういってお店の扉を閉めました。
 ルイおばさんのカフェ。美人林の中にありながら、誰もその場所を知りません。

メモリー1:猫の里の発明王

(著者)虹

 弥彦公園のもみじ谷には小さな小さなトンネルがあり、ネコ達はその先にある『猫の里』で毎日楽しく暮らしています。ネコ達は料理が得意だったり、大工仕事が得意だったりと様々です。皆でお互いに得意な事を披露しながら助け合って暮らしています。

「う〜んチャンスは明日の夜、一度きりか…失敗はできにゃいな」
と猫の里一番の発明家の楓は、難しい顔をしながら古い書物を見ていました。

 三日前の事です。里一番のおてんばネコの もみじは、いつものように弥彦公園を駆け回ったり、香ばしい玉こんにゃくの香りを吸い込んだり、神社の参拝客を眺めたりと大好きな弥彦公園で遊んでいました。すると
「危ない!」
 車に跳ねられそうな危ない所を、弥彦駅の駅員さんが助けてくれました。
「猫ちゃん怪我はないかい?この辺りは車が多いから気をつけないとね」
 と、頭を撫でながら駅員さんは続けて言いました
「もうすぐ日が暮れる、お腹も空くだろうし夜は冷えるから暖かい駅にしばらくいるといい」
 もみじは猫の里に帰りたかったのですが、優しい駅員さんの所から逃げ出す気にはとてもなれませんでした。それに駅員さんはとても痩せていて駅員さんの方が寒そうだなと、もみじは心の中で思ったのでした。
 駅員さんはもみじの為に食事や毛布を用意してくれた後に、白い紙を取り出しマジックペンをはしらせ、スラスラと何やら書いた紙を壁に貼りました。そこには『里親募集』の文字と、お世辞にも似てるとは言えないもみじの似顔絵。
「大事にしてくれる飼い主が見つかるといいね」
 そう言って駅員さんはもみじの頭を撫でました。

 もみじが帰ってこないのでネコ達は心配しあちこち探し回りようやく弥彦駅にいるもみじを見つけました。
「なんとかしないと!」」
 と騒ぐネコ達に向かって楓は静かに言いました
「オレの家に代々伝わる発明の書には『人間変身薬 』の作り方が記されてあるにゃ、ただ失敗を恐れてオレの父さんも、おじいさんも誰も試さなかった、だから本当に人間に変身できるのかわからない、でもオレはこの薬を作ってもみじを迎えに行こうと思うにゃ」
 そうして楓は古い書物と一緒にしまってあった木箱のホコリを払いながら蓋を開けました。すると眩い七色の光に包まれて『七色のリンゴ』が一つ現れました。古い書物には『 七色のリンゴ一つ 、水一ℓ、砂糖大さじ三これらを合わせ満月の光に照らしながら弱火で一晩休まず混ぜ続けよ』と、まるで料理レシピかのように記されていました。
「こんなので本当に人間変身薬ができるんですか?嘘かもしれませんよ」
 と長いしっぽの白ネコは疑いながら言います。
「それなら俺たちが一斉に駅で大暴れしようぜ!」
 とネコ達は様々な声をあげています。
「オレはご先祖さまの発明を信じたい、そして人間と争うことなくもみじが帰って来れるならそれが一番良いと思うにゃ!」
 と普段は静な楓の大きな声にネコ達は驚き少しの間黙って
「わかりました、一緒に薬を作りましょう」
 と長いしっぽの白ネコは楓の手を取りました。すると
「私もお手伝いします!」
「もみじちゃんの為なら僕もやるぞ!」
 と次々にネコ達は手を挙げました。

 翌日見事な満月の下、料理が得意なネコは火を焚き、大きな鍋を用意しました。その大きな鍋の前にネコ達は行列を作って混ぜる番を待っています。
「それ!1.2.―10交代!」
 先頭のネコが10回混ぜては最後尾へ回り次のネコと交代。それを一晩中続けます。混ぜているうちにだんだんドロドロした液体になり、さらに混ぜていくとネバネバしてきて、さらに混ぜると小さくまとまってきました。もうどのくらいの時間混ぜ続けたのか分かりません。皆の気力と体力は限界へ近づき、朝日が顔を出しはじめたその時
〈パァァァー〉
 っと鍋から眩い光が溢れた次の瞬間
〈コロン…〉
 ネコ達は一斉に鍋を覗き込み、現れたコロンとした指先程の小さな一粒の固まりを目の前にして、ポカンと口を開けたまま数秒間まるで時が止まったようでした。
「これが人間変身薬?どうやら完成したみたいだにゃ…」
 と楓がボソッと呟くと、時が動き出したように歓喜の声をあげ拍手が巻き起こりました。そんな喜びの中
「それでよぅ、楓、本当にこの薬を飲むのかよぅ、し、死んじまうかもしれねぇぜ」
 と大工仕事が得意なネコは『失敗』の意味を想像して心配そうに言いました。その言葉にネコ達はまた静かになり不安な表情を浮かべています。
「みんなが一生懸命に手伝ってくれたその気持ちを無駄にできない、それにもみじはきっと困ってるにゃ」
 と楓は落ち着いた口調で言葉を放つと同時に
〈ゴクリ!!〉
 楓は勢いよく薬を丸飲みしてしまいました。
「あっ!!!」
 ネコ達は楓の一瞬の行動に驚いて同時に叫びましたが、手品のように楓の姿はもうそこにはありませんでした。

「イテテテ…」
 楓は頭を強くぶたれたような痛みを感じ目を開けると、目の前には彌彦神社のお社が朝の光で美しく輝いていました。
「あ!」
 と自分のやるべき事を思い出したのか大きな声を一つ出すと弥彦駅に向かって走り出しましたが、足がもつれて
〈ステン〉
 と転び、そこでようやく二本の人間の足に気が付き、嬉しさと驚きが同時に表れたような
「うぉー!」
 と叫ぶと少年楓は再び弥彦駅へと向かって猫の時よりも遅い足を一生懸命動かし走りました。
 弥彦駅では肌寒い朝空気の中、駅員さんはもみじに食事を用意している所でした。そこへ勢いよく走ってきた少年は
「あのっ!」
 と少年の声が大きく駅に響きます。こんな朝早くに人が来るとは思いもしなかった駅員さんは痩せっぽちの体をピクッとさせて驚き、声の方へと振り向きました。
「あのっ、すみません…ここにネコがいるって…」
 自分の声の大きさに驚いたのか、声が次第に小さくなっていく少年楓に駅員さんは近寄り優しい口調で言いました。
「こんな朝早くから猫に会いに来てくれたんだね」
 そう言うと、もみじを少年楓の前まで連れてきてくれました。もみじは少年楓を見ると不思議と一瞬で全てをわかったようで
「ニャー」
 と可愛い声で鳴いて少年楓に甘えます。そんなもみじを見た駅員さんは驚いた顔をした後、ぐっと優しい顔になり
「そうか!君のネコだったんだね、それは良かった!そうかそうか」
 と繰り返し頷いてそして
「これからは車に気をつけるんだよ」
 ともみじの頭を一度撫でてそれから
「気をつけて帰りなさい」
 そう少年楓に言いました。楓はペコっとお辞儀をして、もみじは駅員さんに向かって
「ニャー」
 と可愛く鳴いて少年と一緒に歩きだしました。痩せっぽちの優しい駅員さんは、だんだん小さくなっていく二つのしっぽにしばらく手を振っていました。

海の上のバレリーナ

(著者) 中丸 美り

 海に面した壁の大部分を占めるはめごろしの窓。縦二メートル、横三メートル程の一枚ガラスの窓だ。この店の、唯一の宮村のこだわりだ。かなり値が張る買い物だったが、これだけは譲れなかった。
 この地に移り住んで六年、この海岸沿いにカフェをオープンして五年になる。六年前、宮村は会社員だった。ある日、偶然見かけた海の画像。この佐和田の海だった。この海の青に惹かれた。一目ぼれだった。三か月後会社を辞め、全く土地勘のないこの地に移り住んだ。一人暮らしで少々の貯えがあったのが幸いした。古民家を安価で買い、改装した。もちろん宮村の人生最大の冒険だった。
 
 はめごろしの窓からは佐和田の海が見える。遠くに岬がかすんでいる。海は一日のうちに何度もその姿を変えるが、宮村は、中でも昼と夜が交差する時間が、一番のお気に入りだった。海の青と空の青が溶け合うその隙間に、夕日が最後の命を燃やすようにオレンジ色の光を滑らせる。その様は一日とて同じ姿にはならない。毎日姿を変える海を額縁の中で見ることができる。これほどの贅沢があるだろうか。
 オープンして五年、「海の絵のあるカフェ」として、旅行雑誌にも取り上げられるようになり、なんとか暮らしていけるくらいには客が来るようになった。午後のひととき、いつもなら客が途絶えることのない時間帯だが、今日は、誰もいない。
 目の前の海は、今日は凪いでいて、春の日差しがで踊っていた。
 とその時、入口のドアが開き、一人の少女が入ってきた。初めて見る顔だ。少女は、遠慮する様子もなく店の中に入り、一通り中を眺めた後、窓際の席に座った。アップにした髪は大人びて見えるが、眼差しにはまだ子どもっぽさが残り、大人でも子どもでもない微妙なバランスを保っていた。ピンと伸びた背筋に、静かな意志を感じた。制服を着ている。高校生か。この辺りでは見かけない制服だ。
 宮村は、突然の来客に驚いて言葉を失っていたが、ようやく我に返り言った。
「いらっしゃい」
「コーヒーって苦い?」
「えっ?」
「コーヒー飲んだことないんだ」
 少女は、今時の若者らしく遠慮がない。
「じゃあ、オレンジジュースにしますか」
「コーヒーちょうだい。お砂糖とミルクつきで」
「かしこまりました」
 少女の注文通りコーヒーを淹れ、少女の席に運んだ。

「ねえ、海の上の群舞見たことある?」
 ふいに、少女が尋ねた。
「グンブ?」
 とっさに漢字が浮かんでこない。
「そう、群舞。『群れる』に『舞う』。この海には特別にたくさんのバレリーナがいる。」
 少女が窓から海を見ながら言った。
「昔からね、凪いでる海を見てるとバレリーナの群舞が見えるの。足先が海の上で動いているのが見えるの。どんなに凪いでいても、はかすかに動いていて……。強く弱くリズムを刻んで、高く低く跳んで、揃っては別れて、近づいては遠ざかって、一糸乱れぬ群舞……」
 少女は今まさに目の前の群舞を見ているかのように、半ば夢見心地な眼差しで海を眺めていた。
 宮村は、ふと、この眼差しを、いつかどこかで見たことがあるような気がした。そう、あのとき。娘の莉生を海に連れて行ったとき……。
 莉生と会わなくなって十年以上経つ。妻の景子とは結婚して十年も経たないうちに別れた。その時一人娘の莉生は五歳だった。莉生は妻が引き取った。もともと仕事が好きだった景子は、実家の援助も受けて、フルタイムで働きながら娘の莉生を育てているはずだ。宮村は、今もわずかな額の養育費を毎月振り込んでいる。
 景子と別れてから、莉生とは一度も会っていない。だから、宮村の中の莉生は五歳のままだ。

「あたし、大きくなったらバレリーナになるの」
 海を見ながら莉生が言った言葉が蘇る。娘がバレエを習い始めて間もない頃だった。あの時のあの海は、どこかしらこの佐和田の海に似ていたような気がする。
「ほら、パパ。バレリーナのお姉さんたちが、海の上でおどってるよ」
 五歳の莉生には本当にバレリーナが見えていたのかもしれない。

 もしかして莉生なのだろうか。今ちょうどこの少女ぐらいのはずだ。いやそんなはずはない。自分に都合のいい発想に呆れる。莉生が住むのは遠くの町。こんな平日にこんな離島の海辺までやって来るはずがない。

 少女は、コーヒーにたっぷりとミルクと砂糖を入れ、満足そうに飲んだ。ときおりカップを置いて、海を眺める。
 黙ってコーヒーを飲み干した少女は、立ち上がり会計を済ませた。入口のドアを開けながら、宮村のほうを見て言った。
「ここの海、あの時の海に似ているね」
「えっ?」
 少女は、かすかに微笑んでみせたが、その微笑みはドアから入ってきた汐風と一緒に消えてしまった。気づくと少女はいなくなっていた。
 
 しばらくして我に返り、宮村は店を飛び出した。店の前の道路を左右眺める。車が何台か通ったが、少女の姿はなかった。街中に続く脇道に出てみたが、やはり少女の姿はなかった。
 店に戻り、額縁の中の海を眺めた。もうすぐ昼と夜が交差する時間だ。青かった海と空はその色を変え、境目が溶け始めていた。

酒天童子はミニスカートで走りたい

著者) つぐみざき あさひ


 五月、今日は天気がいい。僕は男の子を拾った。
 新聞を取りに外に出たら、段ボール箱に入った男の子にえらく達筆な手紙が添えられていて、要約すると拾ってくださいと書いてあった。
 立派な家には住んでいるんだけど、そういうのは受け付けてない。とはいえ、近頃暑くなってきているし、死んだりすることがあってはこまるから、と思ってなかに入れてやったのが間違いだったらしい。
「僕は半田あきらだ。君は?」
「酒天童子」
 と来たもんだ。
 酒天童子は確かに新潟県出身だから、京都で倒された後、魂が故郷のここににたどり着いていたとしてもおかしくはないけど。僕は源頼光の子孫でも国上寺の関係者でもないんだけど。
 僕はなにも考えないことにした。
 着ているものがぼろぼろでぼさぼさの髪、顔は良さそうだけど身なりが汚いな。と思った僕は、酒天童子の身ぐるみ剥いで風呂に入れた。
 するとまあ、あっという間に市の方に行ってもそうそういない美少年が現れた。
 現れた訳だが。
「君が着る服がないか。君は小柄だし昔の僕の服が合うかもしれないな」
 昔の服を納戸から引っ張り出している間に、酒天童子が僕の部屋に忍び込んでそこらじゅうひっくり返し、しかも僕の制服を着て、どや顔をするという非常識っぷりだ。
「みじけぇ袴らね。ツンツルテンら」
「それはスカートだ。女子の制服だよ」
 酒天童子が形のいい目を丸くして、
「あきら、髪、みじけえ」
 と片言で言う。
「今の女子はこんな格好をしていることが多い。もちろん僕みたいに違う格好をしたいひともいるけどな」
 と、ファッション雑誌を見せ、イマドキの女子の衣装を教えてやった。
 酒天童子はなにごとか考え込んでいたけれど、おもむろにこう言った。
「あきら、おんなっこんがにおんなっこのかっこしねえ。そいらば、俺がおんなっこしてもいいが?」
「いいんじゃないか?そういう人もいる」
 酒天童子の目がこれでもか、というほどきらっきらに輝いた。
 第一僕が男装趣味だし、変人に女装癖が加わっても、いまさら態度を変える方が疲れる。
「でも、とりあえず、制服はやめてくれ。セーラー服は手入れが大変なんだ」
 僕が着ないワンピースを着て、姿見を眺めていた酒天童子がおもむろに呟いた。
「あきら」
「どうかしたのか?」
 さらっさらになった髪をふわりとなびかせて振り向いた。
「いとしげらな、俺」
「………」
 更にナルシストが追加。
「あきら、街にいごうれ」
 ぴょんぴょん跳ねながら酒天童子が言う。
「あんまり自分が可愛いから見せびらかしたいのか?」
 ふんふんふん、と元気よく酒天童子が頷く。
「じゃあ、今度NEXT21でやるファッションショーに出てみるか?」
「ふぁ?」
 六月にNEXT21で、専門学校の学生によるファッションショーがあるらしい。僕はそういうことにはてんで疎いけど、幼なじみのおしゃれ番長はるかが言ってたのを覚えていた。
 チラシを引っ張り出して、色々と説明をしてやる。
 返事はもちろん即答で、
「やりてえ!」
 だった。
 ということで六月。
 酒天童子がまとったのはおしゃれ番長のはるかに借りた、僕にはなんかもうよくわかんない流行りのすっごい可愛い服だ。
 僕とはるかがいるのは客席だ。ファッションショー会場のNEXT21曲線のエスカレーターの降り口、ランウェイが設置され、客席が作ってあった。
「てんちゃんは超可愛いけど、今までのモデルさんはみんなプロだし、メイクも衣装もプロのひとだし、大丈夫かな?」
 はるかがエスカレーターのステップの上で気取ったポーズのままスーッと降りてくるモデルを見ながら言う。五泉や見附の繊維業が全面に押し出された、特産品だのなんだのをモチーフにした衣装でしゃなりしゃなりとランウェイを歩いてくる。
「大丈夫だよ」
 僕は酒天童子を真似て、自信たっぷりに言った。
「なんでよ?」
「だって、酒天童子は女子を自然発火させるほどのイケメンだから、女子になっても同等かそれ以上の破壊力があるに決まっているんだ」
 ちょっと説明をはしょりすぎだけど、その昔寺で稚児をしていた酒天童子に対する恋患いで死んだ女性の恋心が煙になって酒天童子を鬼にしたらしいし。
 エスカレーターの乗り口が見える席の辺りで、ショッキングイエローの悲鳴があがった。一部なんか野太いけど、それははるかセレクトの勝負服の効果だろう。僕にはなんかもうよくわかんないあれの。
 すらりと白い足がミュールでランウェイに降り立った。
「な、はるか、誰にも負けないだろ」
 スポットライトを浴びて、この世のものとは思えないくらい輝く酒天童子が、軽やかにランウェイに踏み出す。
「そうだね」
 他の一般的な女子なんかかすむほど可愛い酒天童子が、重力から解放されているようにふわりと跳んだ。ガラス貼りの壁から射し込む光をまとって、どんな宝石より輝く笑顔を振り撒きながら。

アマメハギ

(著者) ツキノマコト


 日本の来訪神行事と言えば、秋田の「なまはげ」が特に有名だが、新潟県にも存在する。村上市大栗田の「アマメハギ」だ。
 なまはげとルーツは同じなようで、鬼の面や腰に巻いた蓑など、姿もよく似ている。
 大栗田は過疎化が進み、今ではもう数人しか人が住んでいない。アマメハギの行事も、地元の小中学校の閉校に伴い、一度は途絶えてしまった。近年は村上市の保存会の尽力により、かろうじて小規模に実施されている。

「昔は結構、にぎわったんですよ。毎年1月にね、青年会の若い人や中学生がアマメハギに扮装してね。一件一件、練り歩いてましたね」
 そう語るのは、村上市の出身だというSさんだ。かつて伯父夫婦が大栗田に住んでおり、幼い頃はよく遊びに行ったという。Sさんは古稀を少し過ぎた年齢だから、六十年以上も前の話だ。

「集落には、アマメハギがいると信じて本気で怖がっている子どもも、たくさんいましたよ。でも、私は違った。なぜって、私の伯父がアマメハギだったからですよ」
 Sさんの伯父は、青年会の役員だったので、毎年、アマメハギ役の一人だったという。
「ですから、伯父の家の物置には、真っ赤な鬼の面とか、段ボールの包丁とか、アマメハギグッズが揃ってましたよ」
 Sさんはそう言って愉快そうに笑った。
 ところが、
「でもねぇ。私は一度だけ、不思議な光景を目にしたんですよ」
 ふいに真顔になって、こんな話を聞かせてくれた。

 ある年のことだった。Sさんは例年どおり、アマメハギの行事の時期に伯父の家へ遊びに行ったのだが、熱を出してしまい、寝込んでいた。もとも身体が弱く、すぐに風邪をひく子どもだったという。
 真夜中、ふと目を覚ました。トイレに立とうとしたが、熱と眠気で頭がぼんやりとして、思うように体が起こせない。
 寝返りを打つと、部屋の片隅に人影が見えたので、目をこらしてみた。

「そこにね、立っていたんですよ。アマメハギが」

 アマメハギは微動だにせず、じっとSさんのことを見つめていたという。
「伯父が帰って来て、私の様子を見に来たのだと思いました。ですが」
 Sさんは違和感を覚えた。
「アマメハギの装束のままでいるのは変だし、それに、そのアマメハギは天井に頭が付くくらい大きかったんですよ。伯父は小柄な人だったのに」
 Sさんはしばらくの間、アマメハギと見つめ合っていた。不思議と怖さは感じなかった。アマメハギは優しい顔で笑っているように見えたという。
「その後、すーっと記憶が飛んでいるんです。気が付いたら朝になっていて、部屋には私一人でした。熱はすっかり下がっていました」

 Sさんが食卓に行くと、伯父がすでにいた。Sさんは伯父に、ゆうべ何時頃帰って来たのかを尋ねた。

「帰ってない、と言うんです。青年会の人たちと夜通し新年会をしていて、たった今、朝帰りしたと」

 それ以来、Sさんは、あの時のアマメハギを一度も見ていない。
「不思議な事に、あれ以来、私は風邪をひかなくなったんです。あんなに病弱な子どもだったのに。私は、今でもあれは本物のアマメハギだったと思っているんですよ」
 Sさんは、嬉しそうにそう語った。

夜捕り

(著者)泳夏(えいか)

「先生、夜を捕まえに行きませんか。」
 突然、彼女はこんなことを言う。
「君ね、意味の解らないことを唐突に言うなと言っただろう。それから、状況をわかって言っているんだろうな。」 
 俺はいつもの様に無機質に心電図の数字を確認した。
 七十、六十、五十、四十―。
「先生、それってなんの数字なの?」
 また彼女はこんなことを言う。
「だからね、これは…、大事な目安で、頻回に確認しなければならない…俺の仕事で、つまり…所謂、なんだっけ。」
 俺としたことが、日頃の冷静さと決断力からは到底想像しえない歯切れの悪さだ。
「ふふ、いつもの先生じゃなくって面白い。このバタフライピーのお茶のおかげね。先生ってば、いつも真面目なんだもの。少しはお仕事のこと、忘れましょ。」
 彼女は微笑んだ口元を隠すようにカップを持ち上げた。それから、カップの中を覗いて、
「ほら見て、夜の信濃川。」
と呟いた。俺は自分の持っているカップの中身を確かめた。そこには確かに川が流れていて、高層マンションと夜の電車の灯りが反射した深くて重たい蒼色の流れがあった。
彼女がカップに息を吹きかけると、その深くて蒼い流れは白い湯気を放って、部屋中に立ち込めた。
「もうここ、飽きちゃった。変わらない白い天井。少ししか開かない不便な窓。重くて軽い、あって無いような扉。鳴りやまないアラーム。終わらない治療。もうここに未練はありません!」
 彼女がそう宣言すると、部屋中の湯気が真っ青になって、何も見えなくなった―。
 
 蒼い広葉樹に、蒼い草、ところどころに生息しているのは、蒼い彼岸花。
「ようこそ、蒼の島へ!」
「蒼の島?」
 どうにもついていけない事態なのに、俺はこの場所を知っている気がした。
「忘れちゃったの?ほら見て、服。」
 ふと見下ろすと、俺はいつもの白衣ではなかった。学生の頃、よく着ていたライブのTシャツに細身のダメージジーンズとお気に入りのスニーカーを履いていた。
「夜を捕まえるの。さあ、行きましょう。」
 彼女はそういうと、俺の手を強引に取って速足で進み始めた。坂を上ると、石の階段があって、彼女は一段一段、うんしょと上った。
「まるで神社の階段だな。」
体力に自信はあるものの、俺だってこんな傾斜のきつい階段、いつぶりだろう。
「着いたわ。ここ。確かここで見たの。」
上った先には、銅板が埋め込まれた石の門があった。
「高校?」
「そう、ここにはあったはずなの。熱血な先生がいてね。いっつも、『問題解決には生きる底力が必要だ!』なんて言っていたわ。」
ふっと笑った彼女の横を、ヒラヒラと何かが通った。蒼く光る四枚の羽根に、俺は見惚れて身動きが取れなくなった。チョウトンボだ。異変を感じた彼女が俺の目線を追う。
「あ、待って!待って、お願い!」
 立ち尽くす俺を置いて、彼女は駆けた。だが、もう遅かった。チョウトンボは空高く飛んで、姿を消した。
「綺麗だったね。」
「そう、あれが夜。皆ああやって元の姿になって、この島を自由に飛び交うの。綺麗よね。それなのに皆捨てたがる。私は捨てたくて捨てたんじゃないんだけど、先生はやっぱりお仕事の関係で仕方がなかったのかしら。」
 俺はようやく彼女が何を探しているのか分かり始めた。それは俺にはもう必要のないものだと思っていたが、こうしてここに彼女といるということは、きっと今の俺にはそれが必要なのだろう。
「俺も捨てたつもりはなかったかな。でも押し込めているうちに、消えてなくなった。つまり、捨てたのと何ら変わらないかもしれない。」
 彼女は少し黙ってから、
「もうすぐバスが来るわ。急いで下りましょう。」
と言って、また俺の手を引っ張った。

 バスを降りると彼女はずんずんと怪しげな茂みに入っていった。こんなところを一体誰が通るのだろう。砂利を踏み鳴らして進んだ先には、宝石のように輝く水面があった。
「虫谷の入り江。ここかもしれない。」
 その海水は、果てしなく長い時の中で、人々の悲しみも愛も吸い込んできたような色をしていた。俺はその美しさに屈して、観念した。
「どうしても今日じゃないとだめなのか。」
 俺は閉じ込めていた心の声を漏らした。
「先生、嬉しい。」
俺と彼女の瞳に朝日が差し込んで、キラキラと頬を伝った。
「ほら、捕まえた。」
蒼く輝くチョウトンボが彼女の指先にとまった。
「先生、ありがとう。私、頑張ったの。もうつらいのは卒業。また、ここに会いに来てね。」
 三十、二十、十―。
 俺は一人になった。チョウトンボが何匹も飛び交い、水面を一層輝かせた。それから激しい波が押し寄せて、俺の情けない嗚咽と涙を優しく包んだ。そして俺の震える掌に、一匹のチョウトンボがとまって羽を休めた。

「おかえり。俺の―。」

ニイガタで受けた依頼

(著者)圭琴子


 この辺りが、ツバメ温泉だな。
 俺は注意深く、宿屋と土産物屋が数件並ぶ、こぢんまりとした商店街を抜けていく。腰に吊ったロングソードがどう慎重に歩いても金属音を立てるから、不意打ちに備えて耳を澄ました。
 普段は温泉街として、地元のお年寄りや観光客で賑わう街道だったが、今はひとっこひとり歩いていない。
 コボルトが出たと、噂が立ったからだった。コボルトは、犬の頭とひとの身体を持つモンスターで、戦闘力はそう高くないがイタズラ好きの一面があり、一般人には脅威となる存在だ。
 昨夜、路銀を稼ぎながら旅を続ける俺がミョウコウ市の酒場に入ると、ツバメ温泉から逃げてきた商店主たちに、あっという間に囲まれた。
 ニイガタは風光明媚(ふうこうめいび)な土地柄で、モンスターが出ることは滅多にないから冒険者も立ち寄らず、困り果てていたらしい。お陰で俺は、コボルト討伐(とうばつ)にしては随分と多い額の打診をされて、意気揚々と登山道を登るのだった。
 温泉街から徒歩十五分、標高一一五〇メートルにある源泉かけ流しの野天風呂『カワラの湯』で、コボルトが目撃されたらしい。
 遠くに脱衣所の建物が見えてきて、俺はロングソードに右手を添えた。
「バウワウ」
「バウ! キャンキャインヒン」
 ん? コボルト語? 
 乳白色ににごった広い岩風呂に、二匹のコボルトが浸かっている。――いや、二匹? 一匹は犬頭だったが、もうひとりはブロンドだった。仲良く並んで湯に入り、世間話よろしくコボルト語で和やかにお喋りを楽しんでいる。
 俺は緊張感からガックリと解放されて、警戒を解いてカワラの湯に近付いていった。
 まず、耳の良いコボルトが顔を上げる。続いて、整った顔立ちの少女と目が合った。
 ……え? 少女? 待って待って待って、耳が長い、エルフ? エルフの美少女?
 俺は興奮して――いやいや待て、それじゃ俺が変態みたいじゃないか。ごほん。混乱。そう! 混乱して、思わず声を張り上げた。
「おい、何やってんだ! コボルトは、人間に襲いかかることだってあるんだぞ!」
 エルフは白い湯の中から、細い片手を上げて振る。
「大丈夫じゃ! 彼女、女の子だから!」
 そういう問題じゃねぇだろ、とは思ったが、彼女がふいに立ち上がって脱衣所に向かったので、俺は絶句してしまった。肝心なところは長いブロンドに隠れて見えなかったが、エルフ特有の手足の長いスマートな肢体は、俺の鼻の血流を良くするのに十分だった。
 いかん。初対面で鼻に詰め物をした状態とか、さすがに第一印象が悪過ぎる。
 そう思いとどまって、俺は鉄の意思の力で鼻血を止め、赤く染まったハンカチを急いでしまった。コボルト語は分からないから、ハッハッと舌を出して温泉に浸かるコボルトと何となく目が合って、間抜けな時間が過ぎる。
 三分ほどあって、脱衣所の扉が開いた。鮮やかな黄緑に染め上げられた革鎧(かわよろい)を着た、小柄なエルフだった。
「待たせたな。ワシは、ルーヴィンショウじゃ。ルーヴと呼んでくれ」
「ああ。俺はドルフ。コボルトの討伐を依頼されてきたんだが……エルフがこんなとこで、何やってるんだ?」
 ルーヴはふふんと得意げに含み笑い、ピンと人差し指を立てた。
「人間界には、『オンセン』という至高の趣味があると聞いてな! 手始めに、森の近くから攻めているのじゃ」
 そう言えば、ミョウコウコウゲンの森には、ハイエルフが住んでるって伝説があったっけ。三年ほど前にもニイガタに来たことがある俺は、幾らか風の噂を知っていた。
 長命で美しいが保守的な森の妖精エルフは、人間界に興味を示すもの好きがほとんど居ないため、ニホン中を旅する俺も数えるほどしか見たことがなかった。
 湿ったブロンドの両側から、エルフの特徴である先の尖った長い耳が覗いている。
「彼女を討ちに来たのか? 彼女は、傷を癒やしにオンセンに浸かっているだけじゃ。危険はない」
「でも……」
「でもはない。人間は争い過ぎじゃ。無害な彼女を討つというなら、ワシが相手になるぞ」
 エルフが精霊魔法を使うというのは、有名な話だった。ロングソード一本の俺では、分が悪い。
「分かった。ただ、温泉に来るのをやめて、森に戻って欲しいんだ。俺がやらなくても、また別の奴が来る」
 ルーヴは、コボルト語で何往復か会話をした。
「ドルフ、薬は持っているか? 切り傷を治すために、ここに来ているそうじゃ」
 それからルーヴに通訳して貰いながら、コボルトの足の傷に薬草をすり込み、包帯を巻いて手当てした。コボルトは感謝するように何度も振り返り、森の奥へと帰っていった。
「一件落着じゃの。ドルフ。せっかくだから、お前もオンセンと洒落込んでみてはどうじゃ? 気持ちがよいぞ」
 そんな顛末で、俺はカワラの湯に浸かっていた。シュワシュワと泡立つ白いにごり湯が、確かにひどく心地いい。両手で湯をすくって豪快に顔を洗い目を開けると、ルーヴの笑顔が間近にあった。
「ルーヴ!? 何やってんの!?」
「ん? ここは、『コンヨク』だと書いてあったぞ。男女が一緒に入っていいという意味じゃろう?」
「ま、間違ってはいないけど!」
「何じゃ、ドルフ、色気を出しておるのか? お前のような洟垂れ小僧(はなたれこぞう)が、五百年は早いわ!」
 ルーヴが高らかに笑う。
 それから俺は、何の因果かルーヴの温泉ハントに付き合わされ、混浴の度に鼻血をこらえる羽目になるのだった。